CaMiL

もの作ることで幸せをいただいて、さらさらと暮らしたい

なんのためにカッコつけてるんだろ

 ある人に「カッコとかつけたことないの?」と問われた。

 僕は俗にいうカッコつけている、つけてないという分類からいくと、つけてない方に入ると思う。

 日頃、美大の学食へ行くよりも金沢大学(金大)の学食へ行く方が近いので、利用させてもらっている。そして美大よりも安くておいしくて種類も豊富で断然こちらほうがいい。生協の皆さんありがとう。そういった理由で金大の学生(ほんの一部の学科だけど)はよく見るのだけれど、俗に言うカッコつけている人たちがたくさんいる。女の子ならカワイ子ぶってる子もたくさんいる。ご飯をいただきながら、僕はそういう人たちの容姿やしぐさやたまに聞こえてくる会話を興味深く観察してしまう。

 すっかり日本人にジーンズが定着して履く人が多くなった、ジーンズは足の短い日本人なりに様々な進化を遂げている、彼らの履いているジーンズの多彩な進化の観測をひとつの楽しみとしてみている。カッコつけてる人たちのほとんどはファッション雑誌で分類できるから、解り易い。ジャージにしても着こなしで、どのような仲間とつるんでるのかが想像できる。ここの食堂ではおしゃれ系よりもかっこいい系が、女の子ならかわいい系が多数を占めているように思う。学部的にもインテリ層が少ないのだろう。みんなよく遊んでそうだ。

 カッコをつけたり、カワイ子ぶってる人たちの傾向としては「今、その時、その一瞬」が大事と思われる。だから見た目に拘るし、女の子は弁当を食堂に持ってきたりするんだろう。テレビも見るし、その話題で友達と楽しく会話するだろう、皆でカラオケも行くし、ゲーセンやアミューズメント施設へ行ってその時を楽しむのだろう。僕はといえばまったくそういった習慣がない。

 ある男は常に女の子を意識して、眉間に力を入れて眉毛をきりっとさせていたり、ヘアースタイル、服装も雑誌のようでテレビのよう。僕はというとテレビもファッション雑誌も好んでみず、身なりに関しては自分に合うものを選ぶことぐらいしか考えていない。人の評価、「もてる」ためとか、カッコつけるためという打算的な考えはこれっぽっちもないと思うんだけどどうだろう。別に身なりにまったく興味が無いわけではない。清潔でありたいし、カッコ悪いのはいやだ。なので容姿に関しては僕は僕の好み、趣向、カッコよさがあって、それを元にチョイスしているということになる。だから流行にも左右されずにマイペースにやっている。

 カッコをつけるカワイ子ぶる、そういった振る舞いは解りやす過ぎておもしろい。さらに近頃はアニメ的要素を平然振舞う人も多くなってきた。解ってしまうから僕には到底マネできない。俳優やモデルでもないのに着飾っただけで「俺ってカッコイイだろ」と口で言うようなマネはできない。もしかして、そういう振る舞いをする人たちは解ってないのだろうか、それとも解ってない振りをしているのか、それとも多様な価値観のなかからカッコイイをシンボライズし、ある集団内の共通理解としているのだろうか。そうなるとカッコイイってそういうもんなの?って疑問が沸いてくるけど。またはある集団の制服のようなものなのかと色々な想像ができる。人それぞれ様々な意志、立場でチョイスしているんだろなーと想像している。彼らはなぜあからさまにカッコをつけることを選択したのだろうか。

 僕はなぜ彼らのようにならなかったのだろうか。カッコつけるで思い出したのは小学生のころ、親にムースを買ってもらい前髪を立てたりしていた。それも高学年になったらやめてたように思う。「俺ってカッコイイだろ」とあからさまにカッコつけていたのはその頃で最後だろう。そんな小学生の頃はレゴブロックで良く遊んでいた。ブロックをひとつひとつ積み上げて形を作っていく。出来上がっても飾ったりはせず、また違うのを作り始める。ブロックを積んで想像したものを作り上げることが好きだった。思い通り出来たら嬉しい、でも、出来たものにはもうあまり興味がない。ゲームもしたけれど、断然何かを作り上げていくシミュレートゲームを好んだ。RPGゲームはよくやったけどエンディングをみたゲームは1本しかない。そういったゲームの何が好きだったかというと、その世界だ。モンスターがいる世界、僕が好きなように街を作れる世界、カッコイイロボットが戦う世界。だから世界を十分満喫してしまうと他の世界求めて違うゲームをはじめてしまう、だからエンディングまでいけなかったし、そんなに興味がなかった。よくレベルMAX、最強装備とかに拘っている人がたいけれど、そういうのにも興味をもてなかった。

 そう考えると僕が読書をするのは本という知識のブロックで自分の知識を積み上げるように読んでいるといえる。皆が出来るだけ簡単に最小限で単位を取ろうと奮闘するなか、取らなくてもいい授業を余分にとったり、専攻外の授業を取ったりするのも同じようなことだろう。人よりパソコンが扱えるのもパソコンで色々作って遊んできたからだし、インターネットに詳しいのも本を読むことと同じだ。イタリア語をはじめたのもイタリアという文化から何か新しい物が作れる予感がするからだ。

 僕はカッコよく見られるよりも、『どうやってカッコよくするか・なるか』自体に興味があるということだ。既に皆にカッコイイとチヤホヤされるものに興味はなくて、カッコイイが生まれる・生み出すところに興味がある。カッコつけづにカッコイイが本当のカッコよさで。何かを見てカッコつけてると思ってしまうのは不自然だから。雑草が生えるように自然に、いつの間にか花を咲かせるようなカッコよさが一番理想。髪を染めたりアクセサリーをつけるのも好まない。見た目が美しい女性よりも、存在が美しい女性でないと好きにはなれないし。僕の場合ならば本当にカッコイイ作品をどうやって作るかだったり、見た目がカッコイイ男になるのではなく存在自体がカッコイイ『人間』にどうなるかだ。そして結果的にカッコイイものを作れる人はそれだけでもカッコイイ人間だ。

 そういう理由で僕はカッコをつけるのではなくカッコイイを作りたい人だといえる。